【やなせたかし(94歳)】 告白!あと2~3週間の命!?。2013年7月7日(日)。 [アニメ]
こんのちは~~、楽っくん。(らっくん) で~~~す!。
いつも僕のブログを呼んで頂き、ありがとうございま~~~す。
今日は、昨日の【 やなせたかし 】さんの続報で~~~す ♪ 。
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今日は、昨日の【 やなせたかし 】さんの続報で~~~す ♪ 。
昨日(6日)は、『 アンパンマン 』 の25作目のアニメ映画、
【 それいけ! アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ 】(矢野博之監督)
の公開初日でした!。
都内で行われた、その初日舞台に94歳の漫画家 やなせたかし 氏が挨拶に
現れ、またまたお騒がせな発言をしていました!!。 ( in シネ・リーブル池袋 )
観客を前にあいさつに立ったやなせ先生は、突然
「 順天堂の病院に行っているんだけど、あと2~3週間しか生きられないって言われているんだよ。 」
と、言い出しましたッ!!。
衝撃パーーーーーンチ!!
まさかの衝撃発言が飛び出し、会場にいたみんなは一瞬騒然です!!。
昨日のブログでもお伝えしましたが、やなせ先生の一連のネガティブ発言は本当の心情だったんでしょうか!?。
医者に「 あと2~3週間の命 」と宣告されていたので、気持ちがヘコんで気弱になっていたのかもしれません・・・・・。
と思いきや、すぐに
「 この前(先月16日)の完成披露の記事はわずか15行。俺が死ねば(新聞記者は)
原稿を20行は書くだろう。映画の宣伝になれば。 」
と映画PRのための ブラックジョーク だったと説明して観客を笑わせていましたーーー^^。
アハハッ、まったく人騒がせなジーさんだ!。 (失礼!)
しかし年が94歳と高齢なだけに、洒落になっとらんがな^^。
( まぁ、僕ものせられて記事を書いてしまいましたが(笑)。)
関係者の話によると、
「 病院で2~3週間という宣告も受けていないし根拠もない。」
「 深刻な病気でもない。『 もう死ぬ 』、『 あと2週間 』というのは、ずっと言っています。」
「 先生なりの『 老人ジョーク 』でしょう。」
ということですが、あわててフォローしてました^^。
そして、やなせ先生は前回(6月16日)の完成披露試写会でも「自己紹介の歌」を歌っていましたが、この日も披露してくれました ♫ 。
私はとうとう94歳~
もう目は見えず、耳聞こえず~
立てばしゃっくり、座ればバタン!
歩く姿は枯れすすき~、
哀れなことになりました~
もう目は見えず、耳聞こえず~
立てばしゃっくり、座ればバタン!
歩く姿は枯れすすき~、
哀れなことになりました~
前回の4分11秒よりも短い2分49秒の歌唱でしたが、自虐ネタを盛り込んで、力強い歌声でした ♪ ^^。
歩き方はたどたどしいが、観客の前では原作者として衰えぬ「 アンパンマン愛 」を見せつけていました。
その姿は94歳という高齢にしては、とっても若々しい姿です^^。
たぶん、世界で一番若くて元気な94歳だと思います!!。
25周年という節目の年にメーンキャストの声を担当することになった
本仮屋ユイカ (25)さんは、
「 アンパンマンと同い年。本当に光栄なことだし自慢です。」
と大感激していました。
本仮屋ユイカ (25)さんは、
「 アンパンマンと同い年。本当に光栄なことだし自慢です。」
と大感激していました。
今日は七夕(たなばた)の日なので、短冊には
『 やなせたかし先生が、もっともっと長生きできますように 』
とお祈りして、【 アンパンマン 】のヒット祈願しましょーーー!!。
『 やなせたかし先生が、もっともっと長生きできますように 』
とお祈りして、【 アンパンマン 】のヒット祈願しましょーーー!!。
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関連公式サイト
アンパンマンショップ やなせたかしの世界
「 それいけ!アンパンマン とばせ!希望のハンカチ 」
やなせたかし
やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩(読み同じ)、1919年(大正8年)2月6日 - )は、日本の漫画家・絵本作家・イラストレーター・歌手・詩人。血液型はAB型。日本漫画家協会理事長(2000年5月 - 2012年6月)、日本漫画家協会会長(2012年6月 - )、有限会社やなせスタジオ社長。東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)生まれ、高知県香美郡在所村(現・香美市)出身。『アンパンマン』の生みの親として知られる。1941年(昭和16年)に徴兵されて、野戦重砲兵として日中戦争に出征する。復員後に弟の戦死を知ったことなどから反戦感情を持つこととなる。終戦後はクズ拾いを経て高知新聞記者になり、後に夫人となる小松暢と出会う。1947年(昭和22年)に小松を追う形で上京して、三越宣伝部のグラフィックデザイナーになり、三越在社中に漫画集団に所属、副業で漫画家をしていた。三越では、包装紙「華ひらく」(図案は猪熊弦一郎)に書かれた「mitsukoshi」のレタリングを手掛ける。1953年(昭和28年)3月に三越を辞めて、34歳で専業漫画家となった。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。独立はしたものの漫画家としてはなかなか芽が出ず、漫画やイラストの仕事よりも舞台装置の製作や放送作家、作詞家としての仕事の方が多かった。作曲家としてはミシェル・カマという筆名を使う。編集者としては、サンリオから刊行されていた雑誌『詩とメルヘン』の編集長を長年務めた(1973年 - 2003年)。現在は季刊雑誌『詩とファンタジー』に責任編集という形で関わっている。手塚治虫とは1960年代から手塚の晩年に至るまで親交があり、やなせは手塚が虫プロダクションで制作した劇場アニメ『千夜一夜物語』(1969年)に美術監督として参加し、キャラクターデザインも手がけた。手塚はそのお礼として、やなせの原案によるアニメ映画『やさしいライオン』を制作している(大藤信郎賞を受賞)。やなせは手塚治虫より9歳年長である。上記のように多彩な仕事を手がけているが、『アンパンマン』の人気が上がって売れっ子になった時はすでに50代後半になっており、漫画家としては大変に遅咲きであった。1993年(平成5年)に暢夫人が逝去して、現在は独身である。暢夫人との間に子供は無く、アンパンマンを2人の子供であるとしている。独り身に戻ってからは、誕生日などのイベントに「架空結婚式」(相手は里中満智子など)も行ったりしている。2003年(平成15年)にはCDを発売して歌手デビューを果たして、コンサートも年に数回行っている。2011年(平成23年)頃より眼の調子が思わしくなくなる。2012年(平成24年)6月22日の日本漫画家協会賞の贈賞式では元気な様子を見せたが、高齢と体調不良を理由に日本漫画家協会の理事長を辞任すると発表し、日本漫画家協会の会長に就任。年齢が90歳を超えて、2010年(平成22年)には引退も考えるが、翌年3月に東日本大震災が起こったことから思いとどまり、未だ現役で活動を続けている。代表作は『アンパンマン』『やさしいライオン』など。主に児童漫画を手掛ける。作詞家としては、いずみたく作曲のポピュラー・ソング『手のひらを太陽に』の仕事が有名。勲四等瑞宝章、日本漫画家協会文部大臣賞、東京国際アニメフェア2008 第4回功労賞、等を受賞している。
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